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それまで、私は一泊以上家を空けたことはなかった。
それが、平成九年十二月一日。私は盲腸と腹膜炎で緊急手術、入院することになってしまった。
私は満四十一歳。本厄の年だった。
入院生活中もポロンのことばかり気掛かり、病室の窓から富士山が見えるたび、ポロンが良い子でいますようにと心の中で手を合わせてばかりいた。
私がいない間、ポロンの食事とトイレの始末は母に頼み、日に一回マンションに行ってもらっていた。
十日、何とか外出許可をもらい、三十分だけ帰宅。
ポロン、いつものように日の当たるベッドの端で寝ていた。
留守電やメールの確認もせず、ずっとポロンを抱いていたっけ。
そしてすぐ時間が。またタクシーで市民病院に戻った。
次の外出は十六日。見舞いにきた母が、ポロン食欲なく元気がないと言ったので、急いで外出許可をもらったのだ。
6キロ近くあった大きなポロンが、すっかり軽くなってしまっていた。
まだ、その時はそんなに悲観していなかった。私が戻りさえすれば、ちゃんとポロンの食欲も戻ると思っていた。
病院に戻るとき、ポロンが玄関まで見送りにきてくれた。
マンションを出て、下でタクシーを待ったが、5分ぐらい待たされた。こんなに待たされるのなら、少しでも長くポロンを抱いていれば良かったと思った。
ようやく退院したのが、暮れも押し詰まった二十六日。
ポロン、すっかり痩せて元気なく、たまに水を飲むだけ。いくら好きなものをやっても口にしなかった。呼び掛けても、もう声も出なかった。
二十七日、近所の獣医に連れていく。腎臓疾患で、もってもあと五日ほどだろうと言われ愕然。
畜生、ヤブ医者め。六日以上生きてたら、いや、奇跡が起きて回復したら許さんぞ。俺を脅かしやがって。などと思いながら帰宅。
ポロン、私の膝でグッタリしているだけ。たまにキッチンに吐きに行く。カーペットを
汚さず、せめて板張りの床に吐こうとしているようだ。
退院直後の病み上がりで、私も食欲なく、他に何もできず。しかし看護といっても、せめて一緒にいてやるしか何もすることがない。
二日過ぎ、三日過ぎ、私もクタクタになっていた。
「もういいよ、ポロン。そんなに苦しまなくても。もう安らかに眠ってしまいなさい」
看護に疲れた私は、そんなふうにまで思うようになってしまった。
そして大晦日。昼すぎにポロンはベッドで吐血して、苦しげに身悶え、私の腕の中で死んだ。
すぐ天井を見上げ、抜けた魂に向かって私は、「ポロン…」と話し掛けた。
午後十二時半、十年と八ヵ月だった。
ごめんよ、何にもしてやれなくて。そんな気持ちと、ポロンと私も苦しみから解放されたような、妙な安堵感もあった。
結局ポロンが、私の厄まで背負っていってしまったのだ。
(まあ、猫の天国にいって、ポロンはどれだけ幸せだったか、鼻高々に他の猫と話しているだろうな…)
ポロンにタオルをかけてやり、ペット葬儀社に電話。
しかし大晦日でどこも出ない。そのうち、一軒が来てくれることになった。
夕方六時すぎ、葬儀社が来て、段ボール製の棺桶をくれた。
中に新しいタオルを敷き、死後硬直の始まったポロンを寝かせ、上から、私の匂いのついた枕カバー用のタオルをかけてやった。そして顔の左右に、好きだった毛糸玉を二つ、お京さんが折ってくれた折り鶴と、まゆら様がくれたマタタビを入れて蓋を閉めた。
葬儀社の車に乗せられ、私は走り去る車が見えなくなるまで見送っていた。
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