十年間の日々

「食い物に気をつけろ。必ず殺してやる……」
 何度目かの脅迫電話が、自宅のみならず事務所の留守電にも入っていた。
(弱ったなあ……)
 訴えるのも可哀想だし、かと言って私の我慢も限界に達しかけていた。
人が寝ている明け方に集中して、死ね、とか殺す、とか一言言っては切るというイヤガラセ電話が続いていたのだ。
 しかし反面、世界的に有名な猟奇殺人者から「必ず殺してやる」などと断言されるのは、また感無量でもあった。
 そう。私は、この嫌がらせ電話の相手を識っていた。
 相手の名は、I・S。
 今を去る十八年前、世界を震撼させたパリ人肉事件の犯人である。
 私はこの十年間、彼の友人として最も近いところに居り、様々なイベントを共にし、またプライベートにおいても親しくしていた。
 それが、どうして脅迫電話をされるまでに仲がこじれてしまったのか、この十年間の思い出を綴りながら、彼との交友を振り返ってみることにする。
 一九八一年六月、パリであの事件が起きたとき、私はポルノ作家として駆け出しの時期だった。私は元々フェティシズム、カニバリズムに非常な関心があり、また実行する事を夢にまで見るほどだった。
 それが、あの事件を知り、これは単なるサディズムではなくフェチに発した衝動だと確信し、この犯人とは必ず友人になれると直感した。しかし、まず彼は外に出てこられないだろうな、とも思った。
 私は、自分の一番やりたい事が反社会的だった場合、自分の一生をかけて、自分や相手の家族をも不幸のどん底に落としてまで実行出来ろうだろうかと、日々自問したものだった。
 もちろん私には出来ない事であった。だから、それを実行した彼にある種の敬意すら抱いてしまったのは事実である(被害者への思いは別として)。
 後年、彼の著作「霧の中」が刊行されたとき、私はカニバリズムのシーンでのオナニー衝動を抑えきれなかった。そして彼が幼い頃、実は食べたいのではなく食べられたいのだ、という思いが強かったことを知り、ますます私に似ていると思ったものだった。
 やがて私がポルノ作家として徐々に軌道に乗りはじめた頃、S氏がアダルトビデオに出たという情報を得た。
 彼が不起訴になり、サンテ刑務所から強制送還、松沢病院に収容されている事までは知っていたが、自由に外に出ているとは思わなかった。
 この時、なんだ、出られるのか。それなら俺も実行しよう、とは思わなかった。やはり問題は、罪になるならないではなく、実行するしないという基本的な素質の問題なのだと思った。
 それでも、アダルトビデオとなると、私の仕事に近い部分に彼がいる、ということで、もしかして逢えるかもしれない、という希望が湧いてきた。
 そしてようやく、あるポルノ雑誌の編集長が仲に立ち、対談で彼に会える日がやってきた。私が切に希望していたため、とうとう実現したのである。

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